映画作品紹介
渾身を
観たユーザーからのメッセージ
観たユーザーからのメッセージ
― メッセージ7
騙されたと思ってみてほしい映画。
余り他人の意見に影響されるのが好きでない私。
レビューの高得点もあまり信じない。
しかーし!
この渾身という映画、かなり良い映画なのである。
どういいか?ってその説明が難しい。
簡単に説明できれば苦労はしない。
俳優陣、製作陣共に映画への愛情が感じられる。
いや、びんびん伝わってくる。
ちゃんとした映画評論家や雑誌やコラムには取り上げられていたので、良い映画の匂いはしていた。
予感は的中。
横浜で二回目を観たが、今度は違うところで泣けてきた。
何年か後に評価されている近年珍しい本格的な邦画だと思う。
初めて観終わった時の素直な感想は爽快感でした。
ハリウッド映画のような爽快感も好きですがこの映画は、それとも少し違うとても清々しい気分になりました。
映画が好きな私にとって、お金をかけた大セットやCG満載の映画であることよりもこの、鑑賞後の爽快感が一つのものさしになります。
爆薬炸裂!や、有名俳優やタレント総出演!
と謳っている映画が良い映画であるとは限りません。
特に、有名な俳優と上手い演技をするということが必ずしも=(イコール)ではないことは皆が感じていることで、映画ファンとしてはテレビに出まくっている俳優では無い、新しい俳優の出現を待ち望んでおります。
言い換えれば名優候補を切望しているのです。
有名な俳優が出演していることと良い映画であるということも比例していません。
この、当たり前のことを観客は気づいています。
日本アカデミィショーの授賞式をテレビで見て映画界の人たちはどう思っているのだろうかと思いました。
霧島部活・・・は良い映画だったと思います。
わが母の記も観客は異論は無いでしょう。
しかし、他の映画はノミネートされるレベルだったのでしょうか?
配給会社が小さくとも気を吐いている作品にもっと光を当てなければもう、本当に映画館に行きたく無くなってしまいそうです。
そういった意味でも青柳翔という俳優は、朴訥とした台詞回しの中にも新人らしからぬ大物ぶりがうかがえました。
そして伊藤歩は今までの出演映画の中で最高傑作です。
伊藤歩は雰囲気で見せるイメージでしたが、エンターテインメントな演技のできる女優だと確信しました。
今まで才能を発揮するチャンスがないところでの今回の主演は大きな一歩だと思います。
そして井上華月ちゃん。
こんな自然な演技が出来る子役、見たことないです。
どうやって演技させたのか?
この子役のキャスティングが、制作側の拘りを象徴しています。
監督自身、役にあった縁者を選ぶことに多くの労力を割いていると語っておられるようだが、白い船の浜田岳の時のような切れ味抜群の適材適所のキャスティングに脱帽だ。
甲本雅裕の「ローンです」に笑い、財前直見の「年老いた両親がいます・・・」に思わず、落涙してしまった。
素晴らしい競演だ!
中本賢や宮崎美子は存在しているだけで説得力がある。
笹野高史に至ってはもう名人芸である。
歌舞伎を観ている観客のように大向こうから「待ってました!」と思わず声をかけたくなるほどのプロの仕事である。
中村嘉葎雄もしかり、久しぶりに良いものを見せてもらった。
そして、高橋長英の台詞を話さなくとも伝わってくる存在感。
これこそ映画、である。
隆大介も黒澤映画の常連らしく、存在感のみで全てを悟らせる横綱相撲をみせる。
出てきた時から台詞はほとんどない。
それでも相手の親子にも勝たせてやりたいと思わず思ってしまうほどなのだ。
その深い演技に、映画ってなんて素晴らしい表現方法なんだ、と感動さえしてしまう。
青柳翔の相手役の粟野史浩や長谷川初範や真行寺君枝など芸達者が映画全体の中で見事に調和している。
ロケ地となった隠岐の島の協力もさることながら、観客が素晴らしいのである。
どうやったら、あんな自然体の取組シーンが撮れるのだろうか。
ドキュメントで本当の祭りを撮ったのではないかと思ったほどだ。
同監督作のRAILWAYSでも感じたことだが、今回も丁寧なモノつくりに感心させられた。
渾身はかつての映画人が、一コマ一コマに魂を込めていた名作の匂いがするのだ。
映画が、持つ魅力を最大限に発揮させているこの映画に心よりお礼を言いたい。
この映画に出会った観客は誰しも拍手を惜しまないだろう。
伝統を受け継ぐ隠岐の島の古典相撲の映画は日本映画の伝統と未来を背負っている。
― メッセージ8
テレビを普段あまり見ない私にとって、渾身の存在は知らなくて当然なのですが、情報誌で知っていた程度でした。
もともと映画は大好きですが、最近の映画館でやっているメジャー映画は軽いというか、洋画などの大作と比べても、子供じみたものが多く人生の機微などを感じる作品はほとんど無くなった・・・という印象でした。
ですから、ケーブルテレビの映画チャンネルでまだ見たことの無い過去の名作のほうが断然いい、と思っていました。
家にはサラウンドのシステムをしつらえ、時にはデジタルリマスター版などを楽しむほうが、チャラチャラしたタレント俳優の映画を見るよりはるかに充実しているからです。
ところが、一本の電話で私はこの映画を見ることに・・・。
母が町内の友人の誘いで行ってきたらしいのですが中身を話したくなって仕方ないようでした。
当然、私は聞きたくないのですが、ちょうど夕刊に出ていた記事をFAXしてくれました。
見終わった後、久しぶりに映画館で素直な涙を流させていただきました。
派手な公開ではなかったようですが、関西の映画館でまたやるようなので、皆さんにお勧めです!
映画ファンの間では評判のようですが、もっとみんなに見てもらいたくなる良作ですよ。
私は文章うまくないので母が送ってくれた新聞記事も添えます。
映画:隠岐島の古典相撲通じ愛描く「渾身 KON−SHIN」映らずともこだわり抜いて・・・
全国上映中「渾身(こんしん)KON−SHIN」に出演する甲本雅裕の話をたっぷり聞けたのは、甲本から提案があったからだ。テレビの取材でほんの十数分、甲本と話した。映画「渾身」に触れたのはわずかな時間。数日後、所属事務所から電話があった。願ってもないことだった。
「渾身」を評価してくれていることが分かった、と甲本は言う。だからこそどう伝えるか、書きあぐねているのではないかと。「僕はできたものを見た瞬間に、すごい作品ができたと思ったんです。でも撮影中から、宣伝に困るだろうとも思っていた(笑い)」
島根県隠岐島が舞台。神事、古典相撲を通して現代の愛を描いた、美しく、激しいこの映画を、観客に見てもらうところまでが映画作り。とすれば、この作品のどこを捉えて宣伝し、足を運んでもらえるかが映画成功の最終コーナーになる。
近年の日本映画の中で、小津、黒澤作品とも比べられる数少ない映画。だが素材は地味だし、ご当地映画と勘違いされる危険さえある。興行的に心配な面があることは否めない。
中井貴一主演「RAILWAYS」(10年)など、甲本は錦織(にしこおり)良成監督の映画への出演は5作目。「渾身」では主演、青柳翔の相撲をサポートする島の先輩を演じる。相撲にまつわる家族の話が語られていくなかで、いざ本番の取組直前、甲本のエピソードが入る。
錦織は控えめな演出をする監督だ。「それはやめますか。なしにしましょう」。現場で口にする言葉には意味がある。せっかく見る人に伝わっているものが、一歩踏み込んだ動きや言葉が加わることであからさまになる。それを錦織監督は嫌う。
甲本が担うのは、青柳の家族を支える島の女性(財前直見)にプロポーズするシーン。唐突にも思える挿話が、どうすれば作品の中で一つになれるか。フルスイングもいけないが、さらりと流れてしまっては意味がない。甲本は画面の隅に映る時でも、全編通じてある芝居をすることに決めた。すべてプロポーズにたどり着くため。
一緒に生きている人間なら、周りもその人の唐突な行動の「なぜ」が納得できる。だが2時間の映画の中で首肯させるのは、脚本に加え俳優の力量が必要だ。
主人公の人生は劇的だ。それは映画の中だから辛うじて見えること。映らないが人はみな劇的に生きている。「渾身」は相撲を取る人だけの渾身ではない。
伊藤歩、宮崎美子、中村嘉葎雄、高橋長英……。どの役者も細部までこだわり抜いた仕事を見せる。例えば黒澤時代劇の常連、隆大介は、存在感という演技で画面を引き締め続ける。隆のせりふはたった一言なのにそれができる。
渾身の演技をする役者ばかりをそろえてメジャー作品を撮る。当たり前のようだが、今の日本映画界では不可能に近い。錦織監督はこういう映画を毎年撮ると言う。
{若狭毅}毎日新聞1月25日夕刊
― メッセージ9
グローバルとイノベーションが至上とされる世界を受けて、取りも直さずスマートさが問われる時代だ。
しかし、それにばかり気を取られていると、大量投機された安いゴシップや宣伝の中に、巧妙に仕組まれた情報操作という化け物の思う壺にはまっていく。
一部の特権階級によるマネーゲームならばともかく、今日の糧を求めて奔走する者に付きまとう煩雑な日々においては、何事につけ便利であることは喜ばしいことに違いはないし、希薄で殺伐とした時代にはトレンドというオブラートに包まれた扇動や、ある種の軽薄さもまた必要なのかも知れない。
しかし、その利便さや、本来のスマートさには、それに見合う洗練という裏打ちが必要なはずなのに、往々にして当事者としての経験や、その過程に刻まれた歴史、とりわけその経緯に連綿と育まれた人と人、そして、そこに確かに脈打つ想いとが軽んじられているように感じてならない。
そんな風潮だから、当然誰もが他人事と決め込んでは面倒なことを避けたがる。
直截的な利益にでも絡まない限り誰とも関わりたくはないし、全てに優先されるべきは私事であり、できることなら誰にも関わってほしくないとさえ思うだろう。
それは、今でこそすっかり現代社会に蔓延したことなかれ主義に通じ、さらにはその結果として生じた猜疑心から、こと私的な権利の主張や、保身に長じた権謀術や、その他あらゆる言い訳に関してばかりにどんどん聡くなってはいないか。
結局、それこそが他人の価値観に翻弄されるがままの隷属に他ならないのにだ。
そもそも、人の心というものは安易なマニュアル化を拒むべき最たるものであってしかり、人とは、自らの成さんとすることを、遣り残したことを、諦め切れぬその切実な想いを成そうとする時にこそ、真に孤独と現実とに誰しもが対峙しなければならないはず。
そこに、果敢に向き合わんが故のミスさえもが許されなくなった脆弱な人間関係。
迷うこと、躓くこと、回り道をすることが許されない社会構造。
勝ち組だの負け組だのちゃちな評価基準の中で声高に成功者を気取る者に限って、時に立ち竦んで、それでも何とか突破口をと藁をもすがる思いで空を仰ぎ見る真摯なる者を、単に不器用と嗤い蔑み、あげく強圧的な言葉と暴力によって、自らに卑しく肥大させた虚栄心をせいぜい満たそうとするのだ。
思えば、在りし日の僕が、そのおよそスマートさとは無縁の、一見遠回りにしか見えない、無謀な闘いに挑もうとする時、そこには必ずとして本物の大人たちが多く居た。
敢然とした若者の挑戦を、毅然として見守り後押ししてやろうとする、かつての僕が憧れたカッコいい大人たちがこの映画にはたくさんいて、温かく、力強く若者に寄り添っている。
父と息子であるが故の長年に渡るわだかまりを、誰よりも息子を認めてやりたいと思いながら、そしてそこに認めたからこそ介在すべく適当な言葉さえ律さざるを得ない、そんな昔気質の父親の眼差し。
ただ伝統行事としての様式には堕さない、あるいは形式としての勝負以前に挑むということ、その闘う者同士の互いの精神の尊厳こそを守らんと大義へと青年を引き立てる組合の長の英断。
さらには、主人公をサポートする一見頼りない青年指導者が、本人の決意を前にして満身創痍の主人公を引き止められずに苦悩する姿。
また先達はもとより、彼等の先輩格である中堅処の世話役達の腰の座った立居振舞。
女たちもまたしかり。
「例え勝てなくても、例え無様でも構わない」と、本来ならおよそ大一番を控えた当事者に対して投げかけるべきではないだろう言葉によって、妻として、同時に真の母親として共に生きること、戦うことを疑いもなく内々に宣言するヒロインの澄んだ瞳。
「ずっと会いたかった」の一言だけによって積年の想いを伝え、孫を抱きしめる祖母の細くも温かい腕。
幼馴染の稚拙なプロポーズに「私には老いた両親がいます」と正面を向いて応える誠実さ。
そんな大人たちを見て育つ幼い娘にも確かに引き継がれていくはずの人として大切なことや、日本人として誇れるべく実直さや奥ゆかしさといった和の心を日本の伝統である相撲を通して丁寧に描いていく。
支えられ、背中を押された若者は、たくさんの想いや願いを胸に力いっぱい四股を踏む。
その若者に想いを託した人々は声を枯らして声援を送り、これでもかと塩を撒く。
八百万の神々の前で一点の曇りもない人たちに自ずと涙が溢れる。
自らが生きる上での勝ち負けは他人に決められることではない。
しかし、人は一人では生きられない。
今一度それを気づかせてくれた人々に報いようとする時、『渾身』はより一層と輝くにちがいない。